掃いて捨てる夜

母親とうまいことコミュニケーションをとることが苦手だった。子供の頃から、自分の思いを伝えようとしても恐怖心が先に立ってしまって、上手に口が回らない。どう伝えたところで、何を話したところで、気に入るような回答をしたとて、二言目には罵声か精神的に追い込まれる言葉が飛んでくるのではないかという疑心暗鬼が挟まれる。そして大抵の場合、その疑いは日の目を見ることになる。

中学校に通っていた時分、定期テストを持って帰って点数を見せるやいなや「平均より十点上だけど自分より上の人は誰がいた?」と聞かれた。伊勢谷だ、と答えると「じゃあ伊勢谷君に次は勝とう」と言われた。
次のテストは更に点数を伸ばし伊勢谷を抜かしたと答案用紙を誇らしげに見せると「次は日向君だね」と言われて落胆した。
一人っ子として生を受けた俺には競争相手が家庭内におらず、全校生徒と相手をしている百人組手のような状態だった。褒められなかった。努力が足りないと言われ続けた。

小学生の頃の習い事から既に、親の理想像へと近づくためのゲームのようにプールや公文やスキーに通っていた。俺は何一つとしてやりたいと言っていなかった。本当はサッカーをやってみたかったがそのルートは打ち明ける前に、別の線路を組み立てられていたのでそちらを走るしかなかった。
今思えば反抗すれば良い話であるけれど、そうすると号泣してなんでそんな風になってしまったのだと責め立てられた。
レゴを組み立てながら、公文をやめたいと小学六年生の時に告げると、泣きながら怒り散らしたあとにごめんねと抱き締められた。僕はまるで泣けなかった。あの時から徐々に言葉数が減っていったように思う。

俺の意見は何処にも介在しておらず、ポツポツと用意されている点を結んでいく作業が、生きるということそのものになっていった。
高校の部活動選びで弓道をやりたいと訴えると、一週間ほど辞めるように諭された。金がかかる、どうせ飽きる、他の面白いことをやれ、という理由だった。
珍しく折れることなく説得を続けて入部をし、大会で優秀な成績を修めるようになると、手の平を返したように褒めてきた。あの時にやらせて良かった、と自らの手柄のように話された。その時に完璧に諦めた。自分の努力が親の手柄として全て吸収されていくのは心にこたえた。魂がどっか別のところに消えていくように思えた。

主体としての生を全うすることが今でも上手にできないのは、子供の頃のこういった経験から来ているように思う。やりたいことは無下に否定され、良い結果は横取りをされ、波風を立てないよう気を使った言葉も徒労に終わる。唯一、主体として認められていたのはミスをしたときくらいのもので、それが精神を磨り減らしていく。
結果として客体ばかりを意識する怖がりな性格になってしまった。人から見たときの俺こそが俺であって、汚い部分を隠して生きていくことが上手になった。自分がたまにわからなくなる。というより常にわからないまま過ごしている。
三つ子の魂百までとは良く言ったものだが、陰気な性格はやはり変わらないということだった。

意見の不在への悩みが俺の人生のテーマだった。
指示待ち人間の成れの果てである俺は自分の意見が本当に、全く、一つもない。仕事の会議で意見を求められても新鮮なものを差し出すことは出来ないので困る。良いとこ焼き直ししか思い付けず、そこでも自分の不出来さに意気消沈することが多々ある。
産み出そうという努力はしているのだけれどそれでも何も浮かばないので、もはや体臭のように変えられない、染み付いてしまった特色なのだと思う。嫌になる。使い物にならないような気がしてしまう。客体として生きる俺は人の顔色を伺ってしまうから、何も言えないで自分の番が終わったあとに、上司の表情をチェックする。怪訝な顔をしている気がする。もう駄目だ、と思う。自己嫌悪に陥り、モチベーションも何もなくなる。

今夜もそういうことがあり、母親に罵声を浴びせられた。何も出来ない、生きていけない、どうしようもない、というようなことを手を替え品を替え言われ続けた。反発という選択肢を持ち合わせているけれど、上手く言葉が出てこないまま罵られ続けた。
それは恐怖のせいでもあるし、意見がないことでもあった。それでも意見はないが正論なら思い付いていた。ただ、俺が正論を言ったとしても怒りの燃料になるだけだと分かっていたので我慢して耐えるしかなかった。
母は多分ヒステリックを持っていた。子供の頃から躁鬱が激しすぎたし、振り返るとそういう面ばかりで正直うんざりだった。

ひとしきり心を抉られたあと、煙草が吸いたくなったので近くのコンビニまで行くことにした。久々の煙草は値上がりしていたので、遠巻きに見えるなかで一番値段の低いLUCKY STRIKEにした。コンビニ裏の公園の東屋で火をつけて吸ったが、大した美味しくなかった。
こういった思いを書き記しておきたくて、このブログを作った。もうこんな夜は勘弁だった。今までも憂鬱な夜は掃いて捨てるほどあったけれど、今夜は格別に沈殿していたし、心が燃えるように熱くてしかも冷えきっていた。
これから先に更新するかも分からないけれど、ネットタトゥーとしてこうして彫っておくことをしなければ、書いておかなければ、心が持たないように思った。

急に雨が降り始めた。地面の汚れの匂いがして最悪だった。傘がない。慰めもへったくれもない。
掃いて捨てる夜だった。